土のつぶろぐ

土の粒々から世界を考える!(ある土壌科学者チームの挑戦)

研究者と論文#3(「何歳なら論文何本」という考え方)

論文と若手研究者の評価・雇用について、もう少しつぶやくことにします。

 

研究職の公募に応募するとき、あるいは国の特別研究員に応募するときなどに、「何歳なら(あるいは博士号取ってから何年なら)、論文を何報は出しておかないと、まず通らない」というような話をよく聞きます。同様に、大学の助教ポジションに応募するなら「何歳以下でないと厳しい」という話も。でも、これらの話はどこにも明文化されていないので(たまに年齢制限を設ける公募はある気がするけど)、憶測あるいは経験則といった類いのものでしょう。

 

自分も最初は、「年齢や論文数なんかで判断されてたまるかっ!」と意気の良いことを思っていました。しかし、あまりによく聞く話なので、応募しては返事無しの連敗が続き、職がなかなか決まらないブルーな時代には、残念ながらこれらの数字を意識せざるを得なかったです。また、若手研究者と今後のことを話す時などに、「論文何報だしてるの?」と聞きいてしまう自分がいます。無論その人の将来を心配して聞くのですが、「何を研究したくて、それについてどれ位の努力をしてきたの?」と聞く方が、よほど本質的でしょう。

 

何歳で何報というような表現は、アメリカに留学していた10年間で耳にしたことはなく、最初すごく驚きました。そして、自分を嫌な気持ちにさせ、「何歳だっていいじゃないか。None of your f… business!」と言いたくなります。何が嫌なのか考えるに、それがスタンダードな道を歩んで来なかった人を排除するような表現であり、偏狭な評価基準だと感じるからだと思います。

 

人それぞれ色々な事情があり、色んな背景を持つからこそ多様な才能や人材がいるはず。途中で別のこと(就職、起業、修行、放浪、子育て、介護、ボランティア等々)して戻ってきた人のほうが高い志や広い視野を持っていたり、クリエイティブであったりすることは十分ありうることです。とんでもない発見や発想は、全く違う分野や育ちをしてきた人によって生まれるということは、よく言われることです。実力そして想像力を求められる研究者の評価に、そんな基準を使うのは、理に適ってないと思いませんか。

 

そのような評価基準は、一次審査にしか使われないにせよ、雇用する側にしても、能力のある人をみすみす逃すことになりうるし、誰にとっても良くない。因みにアメリカであれば、このような判断基準が公にあれば、年齢差別として大問題になるでしょう。

 

前回までに書いた通り、論文まして研究者自身を「評価」するのはとても難しいことなので、論文数や論文数xインパクトファクターのような基準で、まず大半を落とすのは仕方ないのでしょう(他によい基準ができるまでは)。しかし、年齢制限はおかしい。歳をとっても教授などという職・義務には興味はなく、助教あるいは技官として教育・研究に関わり続けたいという人だっているだろうし、逆に若くても素晴らしいパフォーマンスをする教授やプロジェクトリーダーがいてもいい。後者は出てきていますね。

 

まとまらない話を強引にまとめます。国の人口動態や経済を考えれば、広い意味での「成果」が今後よりシビアに求められるようになるので、年齢や論文数などという偏狭な基準から、より実力ベースの基準に必ず変わっていくと思います(徐々にかもしれないけれども)。なので、研究者を目指す人達は、やはり自分の個性・能力を磨くに限ると思います。同時に、より良い評価手法・基準を開発し、取り入れてゆくことが大事だと思います。

来日中の土壌化学者の帰国、土壌団粒と分解性

来日中の土壌化学の教授がアメリカへ帰られました。北東部の寒い所から来ていたので、来日直後から「暖かいねー」とニコニコでした。別れる時も、とても楽しかった・有意義だったとビックスマイルで帰って行きました。一緒に実験もやったので、何かと忙しかったけれど、僕らも楽しかったし、とてもよい勉強になりました。ありがとう!

粒蔵の経験では、日本に比べてアメリカの先生は、楽天的で笑顔とユーモアを絶やさない人が圧倒的に多い気がします。そういえば、先輩研究者のHさん(日本人)に、粒蔵は英語になるとやけにおしゃべりになり、ジョークが飛ぶと指摘され、新鮮でした。確かに、そうだ。言語≒文化ということか。たとえ締め切りに追われていても、うまい日本語が浮かばなくても、やはり科学者たるもの、ユーモアとスマイルを忘れたくないと思った次第です。

来日していた二人は、世にも珍しい土壌化学者カップルで、SさんのほうはJSPSの招へい制度を利用して粒蔵が招き、Tさんはサバティカルとして一緒に来られました。先週は京都大学で、土壌有機物そして土壌リンについてセミナーを行いました。教授から学生まで30名ぐらいが参加してくれ、英語にもかかわらず、ディスカッションも盛り上がりました。流石、京大。

思えば、土壌の粒粒と土壌有機物の関係について初めてじっくり読んだ論文は、粒蔵がメーン州立大学の博士課程1年生でだったときの、Sさんの授業でした。なんと、13年も前のこと!

土壌団粒に住む微生物たちの呼吸速度(つまり有機物の分解速度)は、団粒を物理的に壊すことで高まることを示したGregorichらの研究だったと思います。団粒構造の中にある美味しいエサ(有機物)は、多くの微生物にとって手の届かない場所にあることを、単純で説得力のある実験によって示した1989年の研究。引用の多さ(154回、Google Scholar)からも、そのオリジナルさが窺えます。

http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1365-2389.1989.tb01306.x/abstract

個人的には、土壌団粒構造と土壌有機物の分解性の関係について、1989年以降に大きなブレークスルーはない気がしています。同位体分析や、固体分析手法による複雑な団粒の物理構造の評価などを組み合わせ、その関係解明を目指すのが、現在のプロジェクトの大きな挑戦の一つです。

研究者と論文#2(論文の数と質、若手の生き残り戦略)

論文のお話の続きです。

 

アメリカではPublish or perishと昔から言われているように、論文を出さない研究者は消える(職を得られない、職が維持できない)のがさだめで、日本でも(昔は違ったようですが)現在の任期付きの研究者が置かれている状況は同じです。点を取れないフォワードや、勝てない監督がクビになるのと同じですが、問題はスポーツと違い、研究の良し悪しの評価がものすごく難しい点です。昨年の記事(次世代の研究者を育てるには?)でも書いた、「評価」の問題です。

 

研究者を評価する一番単純な方法は、論文数です。例えば、今までに何報の論文を発表したか。しかし、世界には様々な学術誌があり、ネイチャー、サイエンス、PNAS等とっても競争率の高いものから、その反対のものまであります。よって、数さえあればよいという訳ではありません。

 

どの雑誌がよく読まれ、よく引用される論文を多く含むかを比較するためにインパクトファクター(IF)という指標があります。欧米では、IFがどの程度の雑誌に何報発表しているかという、質・量のかけ算で研究者を評価しているようです。当然、日本でも質・量の両方を評価すべきだと思うのですが、雇用審査の際には、基本的に「数」が重要視されるようです。少なくとも、最低ラインとして助教公募であれば何報はないと2次選考には進めないという話はよく耳にします。(この考え方は嫌いだし、良くないと思うのですが、話が逸れるので、また今度)

 

なぜ、最初に「数」だけで篩にかけるのか?理由として考えられるのは、

異なる専門分野の人達が応募できるポジションの場合(例.大学の生命・環境分野での公募)、分野によってそもそも専門誌のIFが異なる。

②IFが高い雑誌に発表された論文が必ずしも良い論文とは限らない。

③IFが高い雑誌に発表するような研究者は我が強く、協調性に欠け、問題を起こしやすいから、IFで重み付けをするのは良くない。

あたりでしょうか。

 

③は驚きですが、実際にどこかで聞いたことがあります。これも和を尊ぶ文化だから仕方ないのか!?②はそりゃそうだけど、他に「質」を測る方法が考案されない限りやむなし。①は確かに問題で、僕らのやっている土壌科学などの環境研究は、医学や生命科学または工学に比べ、研究者人口は当然少ないので、IFの高い専門学術誌も少ないはず。よって、不利になる可能性が高いと思います。先ずその前に、環境研究では論文を書くペースが遅いため(例.野外観測を基にすれば、先ず1年はかかる)、同年代の研究者でも論文数が少ないという問題があります。この専門分野間のギャップの問題(論文がどんどん出る分野を優遇すべきか?)は、難しい重要な問題なので、ひとまず置いておきます。

 

いずれにしても、論文数が少ないと良い研究をしていても大学や独法の研究ポジションに就くのは難しいのが現状なので、自分に近い分野のポスドクには、ある程度割り切って「数を稼ぐ戦術」も考えるほうがいいと言っています。職に就けなければ研究は続けられないので。ただし、当然ですが、この戦術だけに長けていても、一次選考は通過しても、二次選考・面接では太刀打ちできないだろうし、学問の進展にもあまり寄与しません。やはり、自分が大切だと思うテーマ、本質的なテーマを地道に研究することが大事で、面接ではそういう側面が重要視されるのではないかと思います。

 

論文数は少ないが、すごくインパクトのある研究をしていて、研究職を得られる場合もあります。個人的には、数よりも質であるべきだと思うのですが、それを目指すのは(特に日本では)リスクも大きいという事です。例えば、その時にホットでない(重要と見なされていない)研究分野だと見過ごされる可能性は高いし、インパクトのある研究を発表し続けるには、かなりの努力、能力、運や人的・金銭的なサポートなどが必要だからです。

 

つまり、論文数を稼ぐための軽い「ジャブ」のような論文と、数は少ないが深く掘り下げた「ヘビーパンチ」的な論文を、同時並行的に行うのが現実的な戦い方だろうと思います。「軽い」というと語弊があるかもしれないけれど、如何に素早く、絞ったテーマの論文を書くかというトレーニングと位置づければよいでしょう。研究を続けていれば、〆切に追われ、その技術が活きる局面はしばし出てくるので。

 

粒蔵の場合、理想・妄想主義的な傾向があるため、一発KOとは言わなくても、かなりインパクトのあるヘビーな論文を書こうとする傾向があります。幸運なことにパーマネントな研究職を得たので、そのスタイルでも良いのですが、実力が伴わないため、時間がかかり過ぎたり、データが溜まってしまったり、共同研究者に恩返しできない等の問題が出てきています。よって自分も、シャープでクイックなジャブ打ち論文を意識的に書くこと(それだけではないですが)を今年の目標の一つにしています。

 

長くなったので結論:

●論文の真の「評価」は、歴史にゆだねるしかないだろう。やるからには、10年後、30年後でも読まれ、引用されるような論文や、後の科学史家が学問分野の進展や社会問題の解決に寄与したと認めるような論文を書きたいが、それを現役でいる間に知ることは難しい。

●研究者の能力を評価するために使われている、学術誌のIFや論文数は、不完全な評価指標ではあるが、それ(特に、論文数)が重要な選考基準になっているのが今の現実。

●よって、定職を持たない研究者が日本で研究職を探す場合、(少なくとも僕の分野では)じっくり準備する質の高い論文と、割り切ってハイペースで書く論文の両方を書き続けるというスタイルが現実的だろう。

研究者と論文

このところ論文についての話題が身近なところで何度か出たので、今日はこれをテーマに小話を。

 

研究者は、基本的に論文で評価されます。賛否両論ありますが、より良い評価法は見当たらず、現実としてそうなっています。この次世代プロジェクトでも、これだけの税金を使って何がわかったのか、どんな客観的な成果があがったのかが問われる訳で、それは先ず第一に、論文で評価されます(技術系の研究など、特許での評価もあるとは思いますが、科学系では論文です)。

 

自分の行った研究を論文として発表するわけですが、普遍的な重要性を持つであろう発見やアイデアは、当然海外の科学者にも読んで貰うべきなので、国際誌(つまり英語で書かれている学術雑誌)中でもより多くの科学者が読むであろう高名な国際誌に発表しようとします。しかし、書いた論文をその雑誌に投稿したからといって発表にまでたどり着けるとは限らず、高名な国際誌ほど採択率は下がります。

 

採択か否かがどうやって決まるかというと、通常2,3人の同じ分野の専門家が審査します。この人達はレビューアー(査読者)と呼ばれ、その論文を読み、その内容(方法や結果の解釈の正しさ、重要性、新しさ等)を吟味し、コメントを投稿者に返します。投稿者には、査読者が誰か知らされない決まりなので、レビューアーは厳しいコメントも遠慮なく書けます。このレビューアーからの批判に耐えうる論文だけが世に出るという仕組みです。

 

レビューアーとの戦いは、なかなか熾烈を極めることもあります。粒蔵の博士研究の一報目は、地球化学の分野のトップジャーナル(GCA)に投稿したのですが、1年前後のバトルが続きました(レビューアー、担当エディター総入れ替えなどあり)。怒ったり、自信を失いかけたり、悶々としましたが、それを経て精神的にタフになれたし、論文の質も上がりました。

 

この最初の論文原稿の執筆は、本当に長かった。指導教官との間だけで十回以上書き直しを行い、レビューアーのコメントを受けて更に何回か書き直しました(全文ではないですが、一部を入れ替えたり、論理展開を変えたり、再実験の結果を加えて考察しなおしたり)。打ち出したダブルスペースの原稿が、先生のコメントで真っ赤になり、修正原稿を出し、また真っ赤に染まり、、の繰り返しがひたすら続きました。この経験から、文章はちょっとずつしか改良できないこと(少なくとも僕の場合は)、書き直すほど磨かれ、切れ味の鋭い論文になることを身をもって知ることが出来たのは、本当によい経験でした。

 

また、レビューアーの意見は必ずしも従わなくてもよく、こちらが正しいと思えば堂々と異論を唱え、データや理屈を基にクールに(熱くならずに)戦えば良いということも、貴重な勉強になりました。先生は、研究者として生き残るためのスキルを教え込もうとしてくれたんだと思います。

 

このように、世に出た論文一つ一つ、そして出なかった論文も含め、それらの後ろには、さまざまな熱いドラマがあるのだと思います。

 

論文が受理され、発表に漕ぎ着くということは、その分野の専門家に認められたことを意味するので、それは嬉しいこと・誇らしいことです。たぶん多くの研究者は、自分が最初に書いた論文が受理された時の感動を今も覚えているでしょう。

 

このチームの若手(粒子と合宿中のもう一人)の書いている論文原稿も、投稿できる段階に近づいてきました(内容は後日、本人達から)。なかなかの力作だと思うのだけれど、どんなエンディングでこのドラマは終わるのか?そして、次にどんなドラマが待っているのか?

2番目に大事な調査道具

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくおねがいします。

といっても、殆ど反応がなく、ブログの孤独さ・難しさを感じてます。ブツブツブツ、つぶつぶつぶ。

 

すっかり月1回ペースになり下がってますが、今日は「土を調べる道具たちシリーズ」第二弾です。そう、それは靴です。

では前振りから。正月に、念願の西表島に行きました。そこで島縦断トレイルの1日で歩ききろうと、勇み足で、朝早く軍艦岩をスタートしました。しかし、天気予報(1mm程度の雨)は見事に裏切られ、土砂降りに遇いました。はい、川も土砂入りの濁流でした。

 

これではその先の川は危なくて渡れないなと、スタート3時間足らずで尻尾を巻いて逃げ帰りました。英語で言うところの、Chikened out (チキンドアウト:ニワトリのようにびくびくと逃げること)というやつです。別の見方をすれば、新年早々、天の恵みにより身体が清められたというわけです。

 

そして、Uターンして小川となった山道を歩いていると、何と、17年間履き続けたVasqueのハイキングブーツの底が剥がれ始めました。OMG! そして、これは山猫の神様が、今日は止めておけと言っているんだと、そこで諦めがついた次第です。

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この靴は数々の調査で活躍してくれましたが、別れのときがきてしまいました。合掌、アーメン、イッシアッラー

土を掘るときに、底が硬い靴は必須です。シャベルを土に差し靴でガンガン蹴って、硬い土を深く掘っていくわけです。この靴にくっついている微細なつぶつぶを、はやぶさが回収したイトカワ惑星サンプルを分析するぐらい入念に調べ上げたならば、北米の氷河後退後のポトゾル、オレゴンやワシントンの巨大な原生林を支える森林土壌(一部は黒ぼくっぽい)、キナバル山の様々な土壌、インドネシアの赤い土などの土壌粒子が見つかることでしょう。

 

ここまで持ち堪えてくれた靴よ、粒蔵は相棒を失い寂しいが、今までありがとう!

 

で、 一番大切な調査道具は何かって?そんな企業秘密にかかわるようなことは、死んでもシャベルかっての。

踏んで「ぼくぼく」 黒ボク土

日本のどこかで、この土壌の種類は何?

と聞かれる特殊な状況になった時、

農地(つまり平らなところ)では、黒ボク土

山では、褐色森林土

と言えば、けっこう当たります。

(灰色っぽい沖積土とか赤黄色土とかもありますが)

 

今日は僕らがいま一番気合いを入れて調べている

その黒ボク土についての話題です。

北海道、東北、関東、九州の平地でよく見る

濃い茶色~真っ黒のあの土壌です。

 

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これは、宮城県の黒ボク土壌断面で、

真っ黒い層(A層)が1mもあります。

 

火山噴火の時に飛んでくる灰が降り積もり、

そこで数千年以上の間、雨風にさらされ、

植物が生えたり、火が入ったり(#)して

できてくる土壌です。

 (#燃えかすの炭が黒色の原因という説が有力そうです)

 

なぜ黒いのか?など、とても不思議で面白い事が

この土壌には色々と隠されているのですが、

まずはその触りごごち、踏みごごちについて。

 

黒ぼく土は、とっても軽くふかふかしています。

火山灰から出来ていない世界の一般的な土壌に比べて、

その軽さ(単位堆積辺りの土壌重量=仮比重)は

約半分ぐらいです。

 

なぜそんなにふかふかしているかと言うと、この土には

小さな穴が沢山あいているからです。

なので、水はけも良いし、通気性も抜群です。

すかすかなのに、崩れない強固な団粒構造を持つことも

不思議ですねー(これはまた後日)。

 

そして、このふかふかな土壌を踏むと、足がぎゅっと沈み

「ボクッ ボクッ」という音がするから、

または、手触りが「ほくほく」しているというのが、

黒ボク土の名前の由来だと言われています。

 

そこで粒蔵がふと思い出すのは、

子供の頃よく歌ったあの歌です。

 

マーチったら チッタカター行進だー

マーチったら チッタカター行進だー

右足くーん 左足くん

ざっく ざっく ぼっこ ぼっこ

ざっく ざっく ぼっこ ぼっこ

ぼーくを 運んで チッタカタッタッター

のーっぱらへ 連れてゆけー チッタカタッタッター

(我ながらすごい記憶力。昔はね。。。)

 

そこで今日の仮説です

「この歌の作詞家は、黒ボク土の地域で育った」

 

腐植物質とは?なぜ土壌に有機物は溜ってゆくのか?

先週、日本腐植物質学会のシンポジウムで「物理分画法から見える腐植物質(土壌有機物)の特徴」というタイトルで、現在のプロジェクトの成果を発表してきました。

 

土壌腐植研究の大御所の先生方も来られており、質問もたくさん受け、活発なディスカッションをすることができました。Y先生もご健在で実験が楽しい!と言われてており、感激。科学者はこうでなきゃ!と。

 

さて、この学会の名前である腐植物質とは何のことでしょうか?定義は幾つかありますが、「落ち葉や倒木などの植物リターが、それをエネルギー源とする土壌微生物によって分解されてゆく過程で出来てくる暗色で不定形(はっきりした構造をもたない)の有機物の総称」のことです。

 

土壌中には、由来や形がはっきりとした有機物(枯死した根っこ、木片、糸状菌の胞子など)も存在するため、それらすべてを含めた場合、「土壌有機物」となります。ただし、植物リターと腐植物質の境界線はとても微妙であるし、土壌有機物=腐植物質と考える人もいるし、けっこう曖昧さがあります。土壌は、多種多様な物質の混合物なので、仕方ありません。

 

土壌有機物中の炭素は、生物多様性の宝庫である土壌微生物達のエサ(エネルギー源)です。それは、人間が炭水化物などの有機炭素を食べて、それを二酸化炭素(CO2)に酸化することでエネルギーを得るのと全く同じ事です。土壌微生物たちはいつでも空腹のようで、土壌に分解し易い有機炭素(グルコース等)を加えると、微生物は急激に活性化します。

 

それでは、なぜ微生物による分解を免れて土壌中に有機物が貯まってゆくのでしょうか?

 

これまで考えられてきた主な理由は、有機物(腐植物質)の分子が巨大でその構造が複雑だからというものです。しかし近年では、土壌中の有機物を取り巻く環境(特に、土壌の大半を占める鉱物粒子の影響)によって分解が抑えられているという考え方が注目さてています(例えば. Schmidt et al. 2011のNature論文:http://www.nature.com/nature/journal/v478/n7367/full/nature10386.html )。

 

鉱物粒子の影響とは、具体的には、土壌中の鉱物粒子やそこから溶け出た金属イオンと有機物が結合することによって分解しにくくなっている、あるいは、有機物が土壌鉱物粒子に取り囲まれている(団粒構造)ために微生物がアクセスするのが難しいという理由で土壌有機物が溜まってゆくという考え方です。

 

物理分画法という手法と固体分析・同位体分析を組み合わせた僕らの研究結果は、この鉱物との相互作用による分解抑制という説を支持している、という内容の講演発表をしてきました。

 

学会では、水域を対象とした研究トピックも多く、上流の森林土壌から溶けだしてきた腐植物質と鉄は、別々にではなく、仲良く手をつないだ形で移動しており、その鉄が沿岸の昆布の生育に重要だという話もありました。土壌と川と海の繋がりについては、リクエストがあれば、次回にもう少し考えてみたいと思います。